セゾングループ
●堤清二(1927〜2013)
堤康次郎の次男、「バタフライエフェクト」の主役の一人です。
非道な父親に反発して、東大入学後共産党に入党。繊細な感性を持ち詩人、小説家としても活躍。
結局28歳の時に西武百貨店へ入社。1964年、36歳の時に父堤康次郎が死去。一般には清二が後継者と思われていたが、実際に西武グループを引き継いだのは7歳下の異母弟堤義明氏でした。
堤康次郎の7回忌を機に堤清二は百貨店などの流通部門を堤義明氏から譲り受け分離独立します。これがのちの「セゾングループ」となります。
池袋の西武百貨店をアパレルショップを中核に据えた店舗に変え、「ブランド服ブーム」を巻き起こします。池袋東口地下駐車場に池袋ショッピングパークを開業。
堤清二独自の感性をビジネスに持ち込み、「生活文化を売る」商売へ変貌。1973年には渋谷再開発に進出し渋谷PARCOを開業。渋谷を若者の街として発展に寄与します。2025年現在の渋谷という街はどことなしにおぢ臭く変容しつつありますが、1980年代から2000年代の若々しい活発でオシャレな街「シブヤ」の雰囲気は堤清二率いるセゾンが形作ったのだと思います。
1980年代後半に入り、バブル時代が到来します。セゾングループは買収により業容はどんどん拡大するも、その資金の多くを銀行融資に依存するようになります。実際百貨店の売上高は単体で8000億円に上るもドンブリ勘定のため赤字。貸付した銀行はガバガバ加減では負けてませんでしたが、いわば日本一の富豪「堤家」への信用貸しのつもりだったようです。
●バブル崩壊と不良債権処理
1990年に入りバブル経済は崩壊。信用収縮が発生し、長い長い負の経済サイクルに没入していきます。銀行はそれまでの「ドンドン借りてもらえ」から「耳を揃えて返してもらいます」へ姿勢を180度転換。
1991年、堤清二は失脚し代表を辞任。メインバンクである第一勧業銀行(現みずほ銀行)は堤清二個人の債務保証履行と優良子会社の株式売却を要求します。いわゆる不良債権処理です。2001年に不動産開発の子会社西洋環境開発が倒産しセゾングループは事実上解体されることとなりました。
以下はセゾングループを構成した企業と、グループ崩壊後の売却先です。
・サンシャイン60
戦後戦犯裁判と収監、処刑を行なった東池袋にあった東京拘置所(巣鴨プリズン)を移転に伴い買い取って再開発。今は三菱地所の子会社。
・西武百貨店→ミレニアムリテ(そごう西武)→7&i→フォートレス
・西友→ウォルマート、米投資ファンドKKR→(New!)九州のスーパー、トライアル
・ファミリーマート→伊藤忠
・PARCO→ Jフロント(大丸、松坂屋 )
・LOFT→7&i
・良品計画(無印良品)元々セゾンのPB→三菱商事
・セゾンクレジット(クレディセゾン)→独立
・セゾン情報システムズ→クレディセゾンの子会社
セゾングループがかって支援した企業
・吉野家→伊藤忠→独立(再建スポンサーとしてダイエーと競った)
・インターコンチネンタルホテルズ 米パンナム航空からセゾンが買収→ホリデイ・インに譲渡
西武百貨店はその後、ほぼ同時期に倒産したデパートのそごうと合併させられます。この「ミレニアムリテイリング」のちのそごう・西武は口汚い銀行から陰で「ゴミ箱ホールディングス」と揶揄されていたそうです。そごう倒産の戦犯と言われる水島廣雄会長は日本興業銀行(現みずほ銀行)からの出向者で、ダイエー同様に新店舗を不動産担保にして雪だるま式に融資を引っ張って店舗網を拡大し、暴走の結果破綻させた人と言われています。
この両者は7&iグループに引き取られるも持て余し、2023年に米投資ファンドのフォートレスに売却されました。
堤清二は失意のまま2013年に逝去します。